HOME > 土曜セミナーレポート・土曜講座レポート > 社会講座「太田道灌と関東管領の足跡をたどる-埼玉県越生(おごせ)編-」
室町時代、関東には幕府の出先機関がありました。それが鎌倉府で足利将軍家の親類が鎌倉公方(のちに古河公方)を務めました。この公方を補佐したのが関東管領(上杉氏)です。上杉氏からは扇谷上杉氏と山内上杉氏が台頭し、扇谷上杉氏の家宰(家老)となったのが太田氏(太田道灌が有名)です。
今回は埼玉県越生(おごせ)に残る太田道灌の足跡をたどりました。
やってきました、埼玉県越生町です。八王子駅から八高線でおよそ1時間半。大変落ち着いた街です。ここは太田道灌の父道真が治めた領地で、最終的に道真はこの地で亡くなり龍穏寺に葬られました。81歳でした。今回はこの町を散策します。
まずバスで移動し、バス停から30分ほど坂道を上ってたどり着いたのが、龍穏寺です。龍穏寺は足利義政の命で1400年代の前半に建立されました。その後、兵火で焼失しますが、これを再建したのが太田道真・道灌父子でした。応仁・文明の乱のさなかです。ここには伊勢原市役所前にある太田道灌像とよく似た銅像があります。
写真は太田道灌の墓(供養塔)です。道灌は周知のとおり伊勢原市で亡くなっています(伊勢原市大慈寺の首塚、洞昌院の胴塚)。その死を悼んで父道真が道灌の骨を分骨したとも言われています。1486年に道灌が亡くなってから道真が亡くなる1492年までの6年間は、道真がこの地で息子の冥福を祈ったのでしょう。
龍穏寺を後にした私たちは、歩いて峠を越え、1時間ほど山路(下り坂)を移動しました。こうしてたどり着いたのが写真にある建康寺です。ここはもともと道真の隠棲の地で自得軒という庵があったといいます。この地を道灌は死の1か月前に訪れました。その際、道灌は詩僧・万里集九を連れ漢詩を吟じるのを楽しんだようです。
その翌月に道灌の死を知った道真は、自得軒を寺に改め建康寺としました。建康寺の目の前にある橋は、道灌橋と言います。今現在、建康寺の周辺は一面、梅畑となっていて(越生梅林として有名)、梅の季節には観光客でにぎわうそうです。建康寺の北隣の梅畑に「太田道真 退隠之地」という石碑がひっそりと佇んでいました。
最後に訪れたのが「山吹の里」公園です。この地は道灌にちなむ最も有名な故事、山吹伝説の伝承の地の一つです(「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだになきぞ悲しき」の和歌)。かつてこの地には山吹が自生し、地名も山吹であったとか。
太田道灌は関東の戦国期を展望する際に、重要な人物です。伊勢原に生まれ(たとされ)、江戸に進出した道灌はその実力ゆえに、のちに主君上杉定正によって殺害されてしまいます。越生の地は道灌の最後の足取りを偲ぶに相応しい土地でした。来年はさらに太田道灌の足跡(河越城)をたどる予定です。